私のよく読んでいるブログ(内田樹の研究室)で、『地方紙の存在意義について』というエントリーがありました。

アメリカの地方紙が経営不振により消滅し影響が出ているということ。
そして、地方紙と記者の必要性について、役割としての必要性から絶妙な視点で語られています。

地方紙が無くなることで生じた弊害(誰にも報道されないから行政官の給与をじジリジリと12倍まで上げたことなど@アメリカ・・・この出来事だけで報道の必要性を再確認させられます)に触れ、報道の本来の役割と必要性について説いています。

この記事を読み、ネットがあるから新聞もTVニュースも不要などと言う前に、考えるべきことに気付きました。

「ネットは、新聞やテレビが報じたニュースを高速ですくって世界に広める力は抜群だが、坑内にもぐることはしない。新聞記者がコツコツと採掘する作業を止めたら、ニュースは埋もれたままで終わってしまう」

ということです。まさにその通りですが私にとっては全くの盲点でした。
軽々しく、「ネットがあるから新聞もTVのニュースも不要」とか口走るべきではないと肝に銘じます。(口走ったことはないが、新聞やTVの姿勢には常々不満があり、不要論に賛同する側の人間でした。)

アメリカでの新聞の発生を考えると、その存在意義について

「それなしには共同体が成り立たない社会的装置」

と表現しています。
新聞は広告媒体として儲かるという理由から発生したのではなく、コミュニティに情報を伝える必要性から発生したと、内田氏は推測しています。

「広告媒体としての有用性」が崩れてきた以上、「縮小均衡」をめざすのであれば、もとの「小商い」に戻ればよい、と私は思う

というように、ネットの普及等の激烈な状況変化により、地方紙が大きなビジネスとして成り立たなくなったのであれば、規模が小さくても原点の存在意義(「それなしには共同体が成り立たない社会的装置」)へ戻ればいいのではないか、ということです。

最近こういう考え方を読むと、我々鍼灸師の立場のことを考えずにはいられません。

鍼灸師は、国家資格である「はり師」と「きゅう師」という免許を持っていますが、社会的には医療職としては全く認知されていません。
一般の医療職種は社会の必要性に応じて整備され、存在意義の認められた職種です。
しかし、鍼灸師の「はり師」「きゅう師」という国家資格は特殊であり、制度的には医療行為の一部(=はりきゅう治療)を許可された職種ですが、現実的には一言で表すと「惰性」で残されているモノなのだと感じます。

しかし、アメリカの新聞と同じように発生の原点から考えると、鍼灸師という職業も社会に必要なものだった時代もあるわけです。(必要とされていないのにヒトにハリを刺すなんてことはそもそも考えられません。)

現代では「それなしには共同体が成り立たない社会的装置」とまでいかなくても、努力次第でそういった性質の役割を担えるのでは、とも。

そこに至るまでの具体的方法の一つが、私の場合は介護予防運動指導なのかな、と思います。

 

内田氏のブログを読むと、しばしば鍼灸師の職業的意義のようなことを考えさせられます。